on ethnography

先週の金曜にエスノグラフィーについての簡単なコメントを要求され授業で発表した。エスノグラフィーは、ものすごく端折れば、まあ文化人類学のフィールドワークだと言えないことはないのだが、まあ御大のクリフォード・ギャーツの言葉を引用しておこう。

実際にエスノグラファーが直面しているのは−彼自身がより自動的なルーティンによるデータ収集を追及している(もちろんそれも必要なのだが)場合を除けば−複雑な概念構造の多様性なのであある。それらの多くは、互いに重なり合い結び合わされており、一見それは奇妙で、不規則で、曖昧である。そしてエスノグラファーはそれらをまずは把握し、そして描写するために何らかの工夫を凝らさなければならないのである。[Geertz : 1973, p10](拙訳)

だということです。ギャーツの力点は、文化人類学に限らず社会科学全体における、ある研究対象を事実として客観的に記述することができるというある種の潜在意識に対する批判だと言える。この『文化の翻訳』(邦訳なんだったけ?)で、インフォーマントの聞き取り自体が彼/彼女の記憶の再構成という「解釈」であり、、そしてそれを聞き取るエスのグラファーのフィールドノートも「解釈」である。そして、さらにはそれを論文として構築する作業も「解釈」なのであると。つまり、決してニヒリズムにおちいる必要はないが、もしも私たちが「文化」を記述することができるとすれば、それは確固たる物質文化として存在するというよりは、解釈の重層性のなかに存在するのだと「解釈」することができる。それは、彼の文化のコンセプトに顕著に現れていると言えるのではないだろうか。

私が支持する「文化」の概念とは…(中略)…本質的に記号論的なものだ。マックス・ウェーバーのように、人間は自身がそこから生じた意味の網の目に漂う動物だと考えるとすれば、私は文化とはそれらの網の目のことだと考えるし、またその分析とは故に、法則を探求する実験科学ではなく、意味を探求する解釈学的な科学だと考える。[Geertz :ibid, p5](摂訳)

というように、ある意味で反物質文化的なスタンスを取るのですね。ただ、少し自分の中で整理がつかないのは、「文化とは記号論的なものだ」というセンテンスと「故に文化とは解釈の中で理解される必要がある」というような主張は即つながっているのだろうかと。例えば、日本での佐藤郁哉さんの作品などは、解釈学的であるとは言えるけれども、彼は文化を記号論的な体系として捕らえているのでしょうか?もう一つは、ある文化的な事象を「テキスト」として読むことと、「記号」として読むことはかなり違うものな気がするんですが。少し考えてみないといけないなと。

一応、ミュージアムをメディアとして構想していくに際して、エスノグラフィーは鍵概念の一つなもので。もう少し考えてみようと思います。