メディア論における「動き」についてのノート

 エッセイを書いていて頭に浮かんだので。初めて指導教官のDavid Morleyと話をしたときに、ミュージアムをある種のテキストとして分析したらどうだというようなことを言われた。そこで、僕はフーパグリーンヒルを引きながら、いわゆるメインストリームの記号論では、出来上がった展示に組みこまれた例えばeurocentrismのようなイデオロギーを暴露することはできるかもしれないが、展示の意味がどのように生成していくのかを捉えることはできないのではという不安を吐露したわけです。というのも、

都市=テクストを論者の恣意的な『読み』に委ねられた記号体系として扱うことにより、(1)意味作用の主体への問い、すなわち都市をいきることでそれをひとまとまりのテクストへと織り上げていく人々の相互媒介的な諸主体を囲繞し、布置し、組織している場のトポロジカルな編成への問いを欠落させてしまう。つまり都市=テクストの読者となる人々の感受性や想像力、あるいはそのまなざしが置かれる位置は問題にされず、『テクストとしての都市』は、それ自体の意味論的な磁場がもつ物質的な厚みを覆い隠されたまま、一方では、様々な疑似科学的な言語のレトリカルな『読み』に委ねられた素材として、他方では、それ自体で完結し、一切の自由な読解の可能性を閉ざす自律的な記号体系として、われわれの前にたち現れることになるのである。 [吉見、1987: p9]

 この部分の「都市」を「ミュージアム」と入れ替えると僕の持っている懸念とほとんど一致するわけです。ただ、改めてStuart HallやMichael de Certeauを読んでいて思うのは、ある空間をある種のテキストと見立ているのは間違いないんだけれども、それはその都市や、ミュージアムが実体的にリニアーであるとか、一定の意味を持ってしまうとかそういうところに重点があるわけではない。特に発話行為論などを背景にしながら、意味の生成と解読の不安定性そしてそれがベースを置く、行為としての都市であるとかミュージアムに関心の所在があるわけですよね。

 ゆえに、特に80年代以降のメディア研究者は、このダイナミズムとしての「読む」という行為を、Hallであれば「encoding/decoding」、de Certeauであれば「戦略/戦術」、吉見さんであれば「ドラマトゥルギー」というような言葉で、何とかその固定化から逃れさせようとしているようにも見えるわけです。じゃあ、そのなかでどれが僕にとっては会うのか、もちろんミュージアムという空間での意味生成の分析のための武器としてですが。

これで後で読んでも備忘録になるかな?