ethics, photography, ethnography

なんか、この三つの単語って少しずつ発音が似ている。昨日もエスノグラフィーの授業の続き、レクチャーはゲストスピーカーでした。

セミナーの序盤の議論は、エスノグラフィーにおける倫理の問題。これは、社会調査に関わる人は誰もが経験するし、これ自体についての議論の蓄積もある程度あると思うので、改めて言うことでもないのかもしれないが。今回は、写真、つまりヴィジュアルによって都市のエスノグラフィーを行うという話だったんですよね。

ゆえに、インタビュー以上に写真をとっていいのかの許可を得るということが大事だという話とともに、一方で写真を撮ることそれ自体が了解されたインフォーマントの情報をどう解釈するかという問題は残ってしまう。とりわけ、テープレコーダーよりもカメラというのは、<調査者、被調査者>の間の垂直な関係性を顕在化してしまうから。

ただ、これって実は必ずしも倫理の問題とだけは言えなくて、許可をとるかとらないかというのは実はethicsだけではなくてetiquetteの文脈にも載っているわけで、この両者は分けて考える必要がある。もう一つの授業で少し面白いと思っていたのは、携帯電話やiPodなど携帯メディアの氾濫は実は、私たちの公共圏における倫理ではなく礼儀の問題を提示するようになったと。少し礼儀作法のようなものを、きちっとメディアの問題として概念化してみたいなと思ったわけです。

その後、せんせの話を聞きながら思っていたのは、エスノグラフィーの持つ詩的、美的な側面。つまり、社会科学の記述としては、過剰に美しすぎる嫌いがあるという点をどう考えるかですが。この側面のために、エスノグラフィーにはある種のアマチュアリズム、もしくは職人芸的なものというのがまとわりついてしまう。但し、全ての社会調査法は、社会をある一面に縮減するという機能を持っているわけです。つまり、質問紙なら統計的な形に社会の輪郭を整地するということです。だとしたら、エスノグラフィーの詩的美しさが調査の記述としての客観性を欠くというような批判は多分あたりませんねえ。というのも、エスノグラフィーが詩的なのではなく、エスノグラフィーに社会そのものの持つ本質的な美的側面、詩的な側面が縮減されざる負えないと考える方が僕には自然だからです。し、この視点のほうが、社会科学のなかでいかにアートなるものを記述するかという可能性に関して示唆的ですしね。

なんか何書いてるか分からなくなってきたので、やめる。今週、久しぶりに相棒と喧嘩した。